イサドラ・ダンカン

Photo by Arnold Genthe

イサドラ・ダンカンは1877年5月26日、サンフランシスコの名家に生まれました。同じ年の10月、父が経営する銀行が倒産。少しして両親は離婚し、父は別の女性と再婚します。育ち盛りの4人の子供たちと後に残されたイサドラの母は、ピアノのレッスンで生計を立てなければなりませんでした。2人の息子たちも雑多な仕事を見つけ、幼いイサドラと姉のエリザベスも近所の子供達に踊りを教えました。イサドラは、踊りのレッスンや学校にいる時間以外は、いつも海辺を散策したものでした。寄せては返す波の動きをみていた時、舞踊についての最初のインスピレーションが浮かんだ、と後に言っています。

イサドラは、フランソワ・デルサルト(1811-1871)が提唱したからだの動きの理論からも影響を受けました。自然が最も美しい――自然な動きとは身体構造と重力、その両方と調和したもの、というのがデルサルトの考えでした。フランス人のデルサルトを支持したアメリカ人には、ギリシア風のローブに身をつつみ、表情豊かなジェスチャーを交えた詞の朗読やダンスや講演活動をしたリチャード・ホヴィー夫人などがいました(この頃ヨーロッパでもアメリカでも「ギリシア・リバイバル」が芸術界に起こっていました)。デルサルトの理論やギリシア風コスチュームは、イサドラ独自の舞踊芸術が発展していく過程に影響を及ぼしていくことになります。

1890年、13歳のイサドラは初めてのダンスリサイタルをオークランドの教会で開きます(一家は銀行が倒産したのち、サンフランシスコの隣町オークランドへ引っ越していました)。一家の4人の子供達は、社交ダンスも教えるようになりました――ワルツ、ポルカ、ショテーシュ(ポルカに似た拍子の輪舞)などです。サンフランシスコ一帯はこの頃すでに音楽と舞台芸術の中心地になっていました。ヨーロッパの歌劇団が公演旅行におとずれ、エドウィン・ブース、サラ・ベルナール、ヘンリー・アーヴィング、エレン・テリーといった有名な舞台役者もやって来ていました。ダンカン家の子供たちは皆あらゆる芸術に興味を持ちました。長男のオーガスチン(彼は後に有名な俳優になりました)が先頭にたって一家で芝居などを上演し、カリフォルニア沿岸の町々に公演旅行までするようになっていきました。

Photo by Arnold Genthe

1895年、イサドラは母とシカゴへ行きます。そこで短期間のダンスの仕事を経て、地方巡業に来ていたニューヨークの芝居プロデューサー、オーガスチン・デイリーの劇団に雇われます。1895年から1897年の終わりまで、イサドラはニューヨークでデイリーがプロデュースする公演に出演し、ちょっとしたダンスシーンで踊ったり、端役を演じたりしました。また、社交界の婦人の家でリサイタルを開くようになり、母のピアノ伴奏で姉のエリザベスと共に子供たちに踊りを教えるようになりました。そんな1899年のある日、イサドラたちがレッスンをしていたビルが火事にあいます。幸い生徒たち全員を無事助け出すことができましたが、ダンカン一家の持ち物はすべて燃えてしまいました。一文無しになった一家は、イギリスへ渡る決心をします。そして生徒たちの親に援助を求めると、子供を火事から救ってもらった婦人たちはこれに応じてくれたので、そのお金で家畜船の切符を買って船出したのでした。

イギリスに渡ったイサドラは、ニューギャラリーで3回のリサイタルを開きます。そして音楽評論家のJ.フラー=メイトランドにすすめられて荘重な曲で踊るようになりました。この頃イサドラは兄のレイモンドと一緒に多くの時間を大英博物館で過ごし、ギリシアの壷やパルテノンの壁画に描かれた人物像を研究しました。この後にも彼女はパリ、ベルリン、フィレンツェ、ローマ、アテネの美術館や教会、寺院などで人物像を研究し、その偉大なる”動きと表現の芸術”から学んだものを自分の舞踊に取り入れていくことになります。

26歳の時ベルリンでおこなった「The Dance of the Future」という講演でイサドラは、自然こそ舞踊の源だと語りました。生物はみなそれぞれの自然本能によって–それぞれの感情と物理的構造(すなわち身体)によって–動きます。未開人の身のこなしは自然で美しく、同じようにギリシア彫刻に見られる、シンプルなチュニックとサンダルをつけただけの古代ギリシア人の動作は美しいものです。しかし動きが人工的に止まったり始まったりし、ポーズを保ったり、つま先立ちで踊ったりするバレエの動きは、自然運動とは反対のものです。バレエでは動きのひとつひとつが自然な流れで連動していきません。そして重力の法則が存在しないかのような錯覚を作りだそうとします。そのうえ、バレエはからだを歪めます–「トリコットの下では変形した筋肉が踊り……筋肉の奥には歪んだ骨がある」。またイサドラはこうも言っています–「真の芸術か否かという問題だけではありません……女性の美と健康の育成、女性にもともと備わっている体力と自然な動きを取り戻すことなのです。完全な母性と、生まれてくる美しく健康な子供たちの問題でもあります……私の学校では生徒たちに私の動きを真似するようにとは教えません、ひとりひとりが自分の動きをするように……未来のダンサー、新時代の新しい女性のからだに宿る自由な精神……限りなく自由なからだに宿る最高の知性!」。このスピーチでイサドラは女性運動と路線を同じくすると同時に、舞踊が子供の教育に必要不可欠であり、健康で自由な生活を送るための方法であることを主張しました。イサドラはベルリンとパリ、そしてロシア革命後のモスクワに学校を設立しました。第一次世界大戦時には、学校の生徒たちを姉エリザベスの保護のもと、アメリカに送り出しました。イサドラの死後、イサドラが最初に教えた6人の生徒の一人、イルマ・ダンカンに導かれてモスクワ校の生徒たちがアメリカを巡演しました。ロシア人生徒たちがソ連へ呼び戻された後にはアメリカ人生徒たちがかわって巡演しました。イサドラの作品はこうして、「イサドラブルズ」という愛称で呼ばれたイサドラの最初の6人の教え子、アンナ、イルマ、リサ、テリーザ、マーゴ、エリカに受け継がれ、6人の同期生や後継者らを通じて今日まで伝承されてきたのです。

イサドラのコリオグラフィーはどのようなもので、舞踊界にどんな影響を与えてきたのでしょうか。イサドラの叙情的な作品はその「軽さ」と、腕や胴体の、波のように流れる動きが特徴的でした。ドラマティックな作品では、突然の激しい動きや歪められた動きが取り入れられることもありました。「オルフェオ」の中の「復讐の女神たちの踊り」では、地面に頭を打ち付け、床に倒れこんでいます。マーサ・グラハムはメリー・ヴィグマンとともに「床を発見した舞踊家」とよく言われますが、この発見は、重力が舞踊の一部であると主張し続けたイサドラにまでさかのぼるのです。また、イサドラが強調した自然な動き、流れるような表情豊かな動きは、フォーキンやチューダー、アシュトンなどのバレエ振付家にも刺激を与え、彼女自身やロイ・フラー、ルース・セント・デニス、テッド・ショーンなど多様な先駆者のもとで当時萌芽しつつあった「モダンダンス」の領域を拡げました。

Isadora Duncan dancing a Schubert
Moment Musicale chalk drawing
by Grandjouan

イサドラは、社会的・政治的なテーマにもとづいた作品も創りました。第一次世界大戦にインスパイアされた「マルセイエーズ」、ロシア革命を題材とした「スラブ行進曲」などがあります。ソヴィエト・ロシアで子供達を教えていた頃には労働と革命をテーマにした作品を創りましたが、これらの作品は多くの舞踊家に影響を与えました――アメリカではグラハムやホルム、ワイドマン、ハンフリー、リモン、タミリス、ソコロフ、またドイツではヴィグマンやヨースなどが挙げられます。ダンサーたちが自分の歌声に合わせて踊るというイサドラの手法は、今日、モイゼエフ・フォーク・バレエの形式になっています。イサドラと同時代のモダンダンスのパイオニア、ルース・セント・デニスやテッド・ショーンも、舞踊に対しては異なるアプローチをとりながらも、ギリシアをテーマにしたり交響曲を使うなど手法の面でイサドラの影響を受けた作品を創りました。

イサドラの前例によって今日舞踊は多くの学校で一般カリキュラムに加えられています。そこでは舞踊が単なる体操ではなく、人生を豊かにする体験として捉えられているのです。またイサドラ自身による作品は、彼女の死後一時は消滅した過去のものと思われていましたが、再び劇場で上演されるようになり、現在観客からも批評家からも熱心に受け止められています。イサドラの用いた手法、その最小限の衣装や装置、その叙情性や表現の豊かさが改めて認められ、称賛されています。モダンダンスはイサドラの考えを基軸として生まれました。バレエの世界にも、音楽的・心理的な真実を強調したイサドラの考えが浸透しています。イサドラ以前の世界では、舞踊は単なる娯楽だと見なされていました。イサドラは、舞踊を芸術にまで高めたのです。

執筆:フレドリカ・ブレア(「踊るヴィーナス–イサドラ・ダンカンの生涯」著者)/訳:松代尚子


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